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PJオピニオンに掲載された陰謀論を批判する=秋葉原無差別殺傷事件

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年7月17日 07:16
  • PJ opinion

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【PJ 2008年07月17日】− 市民ジャーナリズムの一つであるPJニュースには、パブリック・ジャーナリストとして意見を述べる「PJオピニオン」というカテゴリーがある。どのような意見であっても公表できるメディアは、市民レベルでの表現の自由を保障する場として大きな社会的役割を担っている。また、記事に署名をし、その記事の内容についての責任の所在を明示して公表することは、匿名ブログや匿名掲示板よりも高度の社会的責任を負っていることを示している。

 この記事では、あるPJオピニオンを批判する。同じPJとして活動している仲間を批判するのは本意ではないが、その批判もまたPJの責務だと信じる。「PJのマッチポンプ」と揶揄(やゆ)されることは覚悟の上で、私は私の信念にのみ基づき批判する。

論理の正しさと結論の正しさ
 「すべての人間は死すべきものである」「ソクラテスは人間である」「ゆえにソクラテスは死すべきものである」という誰でも知っている三段論法からも分かるように、"論理"とは、いくつかの前提から結論を導き出す推論の規則である。19世紀に数理論理学(記号論理学)が誕生して論理学は記号化され、単純明快な規則として(だからこそ厳密な規則として)進展したが、「前提が正しければ、論理的に導かれた結論も正しい」という原則は何ら変わることがない。繰り返すが「前提が正しければ」である。論理的な正しさと結論の正しさは別次元の問題であって、前提が間違っていれば、論理的に正しく導かれた結論も間違っていることになる。

 アリストテレスから2000年以上経た現代社会では、さまざまな事象を理解する思考法としての「論理」が浸透していると言っていい。論理的でない主張は一笑に付されるし、前提も結論も一見正しそうな場合でも、それらをつなぐ論理が間違っていれば信ぴょう性を失う。

陰謀論に欠けているのは前提となる事実の探求
 世の中にあふれている陰謀論も、その多くは論理的である。陰謀論が出される事件の多くは、原因がはっきりしない、あるいは常識では理解できない事件であり、事件全体を論理的に理解しようとした人の努力の結晶が陰謀論なのかもしれない。だが、社会に受け入れられない陰謀論のほとんどは、その前提となる事実の検証を置き去りにし、わずかな「可能性」だけを頼りに論理を組み立てている。陰謀を提唱するなら、それを裏付ける事実の究明に注力しなければ、永遠に「論理的な妄想」のままである。

 北朝鮮による日本人拉致は、不幸なことだが、事件発生当初は荒唐無稽(むけい)の「陰謀論」としてまともに取り扱われなかった。それが、事実として社会全体の支援を受けられるようになったのは、拉致被害者のご家族の方々が命がけで事実を追求し、北朝鮮に拉致を認めさせたからにほかならない。怪しげな他の陰謀論者と拉致被害者のご家族を同列に取り扱うのは失礼極まりないが、陰謀論を唱(とな)えて社会全体に何かを訴えかけるには、事実を追求するための血のにじむような努力が必要だということを、ご家族の真摯(しんし)な活動は教えてくれている。

PJオピニオンに書かれた陰謀論を検証する
 16日のPJオピニオンに、秋葉原無差別殺傷事件の陰謀論が「秋葉事件は日本人殺りくの予告」というタイトルで掲載された。(上)とあるのであと1、2回連載されると思われるが、事実をないがしろにした陰謀論の典型である。この記事には、受け入れがたい前提が満ちあふれている。

 同記事では、<犯行が加藤容疑者によるものでなかったら、これらの主張はすべて無効である。報じられる事件の経緯を眺めただけでも、その可能性が極めて高い。>(以下、<>でくくった部分は同記事からの引用部)とあるが、衆人環視の状況で、しかも容疑者に斬(き)りつけられて辛うじて命を取り留めた人や重傷を負った人が多数いる中で、「逮捕された容疑者が犯人でなかったとしたら」とは言葉遊びでしかない。

 <犯行が加藤容疑者によるものでなかったら>という前提を筆者が書いた理由は<男がトラックで交差点に突っ込んでから警察官に取り押さえられるまで2分しかかかっていない。><犯行前に現場周辺を1周以上車で回っていたとの報道が突然一斉に流された。掲示板に「時間です」と書き込んでから犯行までの23分間の空白を埋め合わせるための苦肉の策だろう。><防犯カメラの画像など、まゆつば物だ。><(容疑者に対する周囲の)人物像><一貫しない動機>なのだそうだ。

 あれだけ混雑している歩行者天国に、警官が配置されていないことなどあり得ない。どんなに小規模の歩行者天国でも私服・制服の警官はいる。まして、秋葉原は日本で有数の人出を誇る歩行者天国だったのだ。また、掲示板に書き込んでからの23分間、容疑者がトラックで移動していたことは、交差点や付近のビル、マンションに設置された防犯カメラの映像で裏付けられている。しかも、その映像が<まゆつば物>だとする証拠は記事に示されていない。日常生活で「そんなことをするように見えない人物」であっても、供述している動機が一貫していなくても、殺人を犯した事実を否定する前提にはなりえない。

 結局、検証に耐えない「可能性」を前提に積み上げた論理だ。その論理の結論が<権力とかかわりある者(正確には、わが国の国家権力をも支配する組織と通じた者)の犯行としか考えられない>とは、開いた口がふさがらない。妄想である。

全ての犯罪が論理的に説明できるわけではない
 この妄想の中で、たった一つ同意するのは、マスコミの犯罪報道について書かれた<「人生の不満(両親との不仲、繰り返した転職、高校での成績不振、交際相手の不在)→ネットやゲームの世界への傾倒→『携帯サイト』でも孤立→無差別殺人」。はっきりした動機が見当たらないので、つじつま合わせしたいのだろう。>という部分だ。

 凶悪事件が起こるたびに、マスコミはその原因を探ろうとする。秋葉原の事件では、格差社会や不安定な労働環境、容疑者の生育環境を取り上げたマスコミが多かった。だが、容疑者と同じような環境でも、殺人者にならず、まっとうに生きている人がほとんどだ。「ある特定の状況に置かれていたから、殺人を犯した」と解説できれば、なんとなく分かったような気になるのだろうが、それは危険だ。犯人の頭の中で、危険な論理が展開して殺人に至ったとしても、その論理を普遍化するのは不可能だからである。もし、その危険な論理を社会が認めれば、同じ状況にある人が殺人を犯しても、それなりの理由があるということになってしまう。

 犯罪の原因を考えるのは社会的に重要なことだと思うが、社会全体が受け入れられる合理的な理由が存在しない犯罪があることを忘れてはならないだろう。人間は、常に論理的に行動しているわけではない。社会的に批判される事が分かっていても、不倫をする人がいる。なに不自由なく生活しているのに、万引する人がいる。自分は死にたくないのに、他人を殺す人がいる。社会に認容される論理は、そこにはない。

陰謀論を発表したことの社会的責任
 さまざまな事件について陰謀論を唱(とな)えることは、表現の自由で許容されることかも知れない。だが、前掲のPJオピニオンに決定的に欠けているのは、被害者とその関係者への思いやりだ。無残に命を奪われ、傷つけられた被害者とその関係者に、「実は容疑者は真犯人ではなく、事件は国家的陰謀だ」と言う場合には、それなりの覚悟が必要だ。国家、つまり社会全体が被害者を殺した"敵"だと言っているのだ。確たる証拠を積み上げた上での結論でなければ、非常識の誹(そし)りは免れないだろう。

 わずかな可能性だけで被害者を苦しめ悩ませる結論を導き、それを公表することは、人としてやってはいけない。そんな陰謀論をパブリック・ジャーナリストとして公表したのだから、社会的責任を取る覚悟はあるのだろう。少なくとも、私は許さない。国家的陰謀だというなら、その証拠を示せ。検証可能な事実を示せ。国家的陰謀は解明が難しいなどという言い訳は許さない。それができないのであれば、被害者とその関係者への謝罪を強く求める。【了】

SPEEDO水着批判は的外れ

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年6月24日 08:38
  • PJ opinion

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【PJ 2008年06月24日】- 日本水泳連盟(以下、日本水連)のスポンサーのうち、アシックス、デサント、ミズノの三社はオフィシャルサプライヤーであり、オリンピックをはじめとする大きな競技会で、日本水連の支配下選手に独占的に水着を提供する契約を結んでいる。

 スピード社製の水着を着用した選手が好記録を連発し、選手側からスピード社製の水着使用を求められても、水連がすんなりと使用を許可できなかったのは、この契約の取り扱いの問題に過ぎない。結局、日本水連はスピード社製水着の着用を許可したが、この決定は、日本水連の英断と言うより、オフィシャルサプライヤー三社の苦渋の選択だったと言っていい。

 契約上、スピード社製水着の着用を拒否することもできたはずだが、もし着用を拒否して、オフィシャルサプライヤー三社の水着を着用した選手が不本意な結果になったとすれば、三社へのダメージは計り知れず、対応を罵(ののし)られた可能性だってある。オフィシャルサプライヤー契約は2017年3月まで継続することになっており、今回苦渋の決断をした三社は、名誉挽回(ばんかい)のために必死に商品開発を進めるに違いない。

 この水着騒動の中で「水着によって記録が左右されるのはおかしい」との意見がある。例えば18日のPJオピニオン水泳はいつから水着の大会になったのか? スピード社の水着問題について一考では、「スポーツとは本来、競技者の能力を競う物で、競技に付帯する器具の性能を争う物ではないと考える」と述べられている。

 スポーツ競技に多くの人が熱狂するのは、記録をたたき出した選手を称賛する熱狂であると同時に、人間が秘めた能力の極限を目の当たりにした喜びを感じるからだろう。

 では、"人間の能力"とはなんだろうか。上記のPJオピニオンでは、スポーツ競技に用いられる器具の効果を極限まで除外した「生物としての人間の能力」を人間の能力として想定しているようだ。現在行われている運動生理学に基づいた科学的トレーニングは、まさに生物としての人間の運動能力を効率的に向上させることが目的だが、その一方で、近代スポーツの発展が、スポーツ用具の開発・改良によってもたらされてきたことも忘れてはならないだろう。

 陸上競技を例に取れば、最もシンプルな「走る」という運動でも、100メートル走と、マラソンでは履いているシューズが違う。陸上トラックにはウレタン舗装や合成ゴム舗装が施されており、スパイクシューズが使用される。市街地を走る事が多いマラソンでは、ピンのないマラソンシューズが使われている。スパイクシューズのピンの長さや位置は選手によって違うし、シューズの形状はもちろん、シューズのソール(底面)の硬さや厚みも多種多様だ。選手は、数あるシューズの中から自分に適したシューズを選び、「走る」能力を十分に引き出すことを目指す。

 水泳の水着も同じだ。流体力学を駆使し、抵抗を抑える素材と形状によって「泳ぐ」能力を十分に引き出そうとしている。それは、科学技術という人類の英知を結集した成果でもある。ただし、スピード社が開発した新しい水着によって新記録が生まれたとしても、記録は選手自身の栄誉であって、その選手の能力を引き出した技術は補助的技術に過ぎない。その意味では、道具選びもまたスポーツ競技の一部であるだろう。

 各スポーツ競技に定められている規定(レギュレーション)は、競技団体が主体的に決めた「人間の能力」と「競技」の定義にほかならない。薬物摂取(ドーピング)によっていい記録が出てもそれは「人間の能力」ではなく、水泳でフィンやパドルを使ってはいけない、というのも、競技団体の定義だ。言うまでもなく、スポーツ競技はレギュレーションの中でどれだけの記録が出せるかを競う、公正でフェアな争いだ。

 だから、水着がレギュレーションに違反しないのであれば、選手にはその水着を着用して大会に参加する権利がある。前述のオピニオンでは「スピード社が開発した水着を着用した選手が競技に勝利し名誉を手に入れても、当の選手は心から喜べるのか?満足できるのか?」と述べられているが、選手はなにも後ろめたいことを感じることはなく、いい記録が出れば、素直に喜び、満足して欲しい。わたしも心から称賛する。水着が泳いだのではなく、選手が泳いだのだから、当然の称賛だと思う。

 「生物としての人間の能力」を評価するなら、筋量を測定したり、心肺能力を測定したりすればいい。だが、スポーツ競技は、身体測定ではない。道具を選び、フォームを改良し、血のにじむような努力と、大会に向けた体調調整をした選手が栄光をつかみ取る場だ。「道具の性能に頼ることなく競技すべきだ」というレギュレーションに関する批判を封殺するつもりは毛頭ないが、その批判は選手に向けられるべきではない。選手に対する、スピードの水着を着て出した記録に満足できるのか、という問いかけは、的外れで侮辱的だとしか言いようがない。【了】

死刑囚を「殺す」のは誰か

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年6月22日 15:39
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【PJ 2008年06月22日】- 18日の朝日新聞夕刊コラム「素粒子」が、死刑を執行した鳩山邦夫・法務大臣を「死に神」と表現したことについて、大臣が強く抗議している。

 日本が死刑制度を維持しているのは、死刑存続を望む国民が多数を占めているからにほかならない。選挙で選ばれた立法府が死刑を定めた法を制定し、国民から司法権を委託されている裁判所が死刑判決を下し、行政府が死刑を執行している。死刑を定めた責任も、死刑判決を下した責任も、死刑を執行した責任も、すべての国民が等しく負っている。死刑制度への賛成・反対を問わず、尊い人間の命を奪うことについては国民一人一人が極めて重い責任を負っている。

 「素粒子」の執筆者は、法律に定められた職務として死刑執行命令書に署名した法務大臣を「死に神」と揶揄(やゆ)して、自らの責任が軽減されると思っているのか。あるいは、自らの責任を感じていないのか。不見識も甚だしい。

 来年にも始まる裁判員制度では、死刑罰が適用される可能性のある重大犯罪も国民が直接裁くことになる。「素粒子」の論理は、死刑判決を下した裁判員も「死に神」と揶揄することになるだろう。あってはならない暴論だ。今まで職業裁判官だけが担ってきた司法の重責の一部を裁判員が担い、死刑に相当する犯罪を起こしたと判断すれば、死刑判決が下される。それは「死に神」のなせる業ではない。社会を構成する人間が、悩み、苦しみながら、社会正義のために下す罰だ。

 「素粒子」執筆者が裁判員に選ばれたとき、「死に神になりたくない」と、何も考えずに死刑を回避するつもりだろうか。それは、人を裁く重責を放棄することだ。「死に神」に見え隠れする理念先行・思考停止の姿勢は、「アサヒ」の真骨頂かもしれないが。【了】

国際緊急救助隊の「無念」を繰り返さないために=中国・四川大地震

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年5月23日 14:08
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【PJ 2008年05月23日】- 日本は、世界の中で最も自然災害の多い国だろう。台風の通り道に位置し、地下では4つの大陸プレートがせめぎ合い、無数の活断層があり、火山があり、細長い国土の中央の山脈から流れる急こう配の河川は頻繁に氾濫(はんらん)し、多くの人々が住む海岸付近のわずかな平野は津波や高潮の被害も受ける。日本に世界最高レベルの災害救助組織があるのは、幾多の災害に苦しみ、多数の犠牲者を出してきたからにほかならない。

 阪神・淡路大震災を例に引くまでもなく、日本に住む多くの人たちは地震被害の深刻さを身をもって知っている。また、被災地で、救助隊が危険を顧みず活動し、多くの人命を救助してきたことも知っている。だから、四川大地震の被災地に、日本政府が国際救助隊を派遣することを決めたとき、派遣先が少数民族を迫害している国であっても、救助隊に心からエールを送り、一人でも多くの命を救ってくれることを願った。

 21日に帰国した救助チームは、残念ながら、生存者の救出はできなかったが、ご遺体に整列して黙禱(もくとう)する救助隊の写真に感銘を受けた人々の声が伝えられている。世界に誇るべき救助隊である。20日に出発した医療チームも、立派な活動をしてくれるだろう。無事の帰国を心から祈っている。

 帰国した救助チームの藤谷浩志副隊長は「中国での救援活動に参加した以上最後まで仕事をやり遂げたかった」と語っている。生存者を救出できなかった無念さを口にする隊員もいた。だが、その無念さは、救助チームの責任ではない。派遣された救助チームは、「都市型災害救助」のスペシャリストだった。倒壊したビルの中に閉じこめられた生存者の救出に抜群の能力を発揮する。しかし、中国側が最初に案内したのは、山間部の土砂崩れ現場だった。中国政府の救助隊の受け入れ要請が遅れ、交通が寸断されている山間部との往復に時間を取られたため、実際に救助活動を始めたときには、生存率が大幅に低下すると言われている発災後72時間を大幅に過ぎていた。

 20日に派遣された医療チームは、簡易エックス線検査装置や応急外科手術設備を持ち、医療設備のない被災地域での活動を専門とするチームだ。しかし、現場に到着した彼らは、最前線での活動ではなく、成都市内の四川大学華西病院での活動を求められ、丸一日かけた協議の後、医療チームは中国政府の要請を受け入れる形で22日から活動を開始した。

 発災直後、中国からの報道は、倒壊したビルや、治療を受けられない負傷者の映像ばかりだった。このため、「都市型災害」の救助チームと、「野戦病院」型の医療チームを派遣した政府の判断は妥当だったと思う。問題は、都市型災害チームを山間部に派遣し、野戦病院型医療チームを総合病院に配置した不手際だろう。

 四川大地震の被災地での救助活動は、人民解放軍が指揮を執っている。一方、国際緊急救助隊の受け入れを決めたのは、中国外交部を中心とする中国政府だ。つまり、中国政府が受け入れを決めたものの、人民解放軍との意思疎通が図れていなかったことが、今回の中国政府の「不手際」の原因ではないのか。実際、産経新聞では、「あれは日本隊だろ。早く帰れよっていう感じだ」という兵士の発言が伝えられている。軍隊という組織は、どの国でも、自己完結型の組織だ。その組織の活動の中に、外国の救助隊を組み込もうとすれば、齟齬(そご)をきたすのは当然だ。自衛隊でも、それは無理だろうと思う。だからこそ、受け入れを決めた中国政府は、人民解放軍と救助隊の活動地域を調整する必要があった。今回、中国政府はその調整ができなかった。

 救助チームの都市部での活動場所は、人民解放軍が一通りの救出活動を終えた場所だった。医療チームの活動場所は、人民解放軍の「邪魔」にならない総合病院の中だ。人民解放軍が救助隊を「もてあましている」様子が垣間(かいま)見える。もっと適切な活動場所があれば、救助隊の救助活動も違ったものになったのかも知れないと思うと、残念でならない。もちろん、どんな場所に配置されても、救助隊が精一杯の活動をしてくれることに不安はないが。

 人民解放軍ではダメだ、と言っているのではない。人民解放軍も命がけで救出活動をしているのだから、救助隊が同じ場所で活動をしても、同じ結果になったのだろう。だが、一度受け入れを決めたのなら、救助隊が存分に活動できる環境を作ることが必要だったのではないか。帰国した隊員が無念さを口にするようなことは、避けられたのではないか。

 今回の救助隊派遣の教訓は、救助隊に存分に働いてもらうためには、派遣時に詳細な活動計画のすりあわせが必要だということだ。派遣するだけではなく、派遣した救助隊がどんな活動を得意としているのかを伝えることが必要だ。現地の救助本部と中央政府の調整も不可欠だろう。近い将来、必ず日本でも大規模災害が起こる。国際救助隊を受け入れる状況もあるだろう。せっかく来てもらったのに、思うように活動ができなかった無念さを抱いて撤収させるようなことは、ないほうがいい。

 地震で亡くなった皆さんの冥福を祈る。けがに苦しんでいる皆さんや、家族・知人を亡くした悲しみに暮れている皆さん、家を失って不自由な生活を送っている皆さんに、一日も早く平穏な日々が訪れることを願っている。【了】

グリーンピースジャパンはただの窃盗団だ

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年5月17日 07:19
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【PJ 2008年05月17日】- 運送会社の倉庫に侵入して他人の荷物を勝手に運び出せば、少なくとも、刑法130条・住居侵入罪(3年以下の懲役または10万円以下の罰金)、同234条・威力業務妨害罪(3年以下の懲役または50万円以下の罰金)、同235条・窃盗罪(10年以下の懲役または50万円以下の罰金)に当たる。

 このような重大犯罪を起こしながら、荷物を運び出した様子をビデオ映像で公開し、堂々と記者会見を行った団体がある。自称「地球環境保護団体」の非政府系組織(NGO)であるグリーンピースジャパンだ。グリーンピースジャパンは調査捕鯨によって捕獲された鯨の肉が、乗組員によって横領されている疑いがあるとして、乗組員が自宅に送った荷物を西濃運輸の配送センターから無断で持ち出して開封し、横領の告発状とともに「証拠品」として東京地方検察庁に提出した。

 日本国憲法第35条2では「捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。」と明確に規定されており、たとえ犯罪の告発が目的だったとしても、何らの権限を有しないNGOが配送センターを「捜索」し、荷物を「押収」するなどあってはならない。その結果得られた「証拠品」についても、昭和53年9月7日の最高裁判所判決(全文pdf)では、「証拠物の押収等の手続に、憲法35条及びこれを受けた刑訴法218条1項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが、将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合においては、その証拠能力は否定されるものと解すべきである」としており、もし立件されたとしても裁判の証拠にはなり得ない。

 グリーンピースジャパンの理事長は海渡雄一氏で、第二東京弁護士会に所属する弁護士だ。同氏は、福島瑞穂・社民党党首の夫(夫婦別姓を主張し、事実婚状態)としても知られている。海渡氏のような有名な弁護士が、犯罪団体の代表を務めていることをどう考えればいいのか。今回の窃盗事件は、グリーンピースジャパンが記者会見したことからもわかるように、個人だけの犯罪ではない。グリーンピースジャパンが組織として行った窃盗であり、業務妨害である。組織としての業務妨害は組織犯罪防止法に抵触する。

 グリーンピースジャパンの弁護士は「証拠品であるうえ、不当な利益を得る意思もなく、違法性を免れることができると考えている」と主張しているらしいが、違法に収集した物品は証拠品にならない。不当な利益を得る意志があろうとなかろうと、他人の占有物を領得した時点で窃盗は罪になる。覚醒剤でも、他人の物を盗めば窃盗罪は成立するのだ。弁護士なら、今回の窃盗が違法性を免れる法理を示していただきたい。

 捕鯨に反対するのは自由だ。だが、日本の伝統産業である捕鯨は、鯨を食べない国々による、科学的根拠が薄弱で感情的な反対によって、壊滅的打撃を受けている。この状況で、調査捕鯨での「不祥事」を明らかにすることによって、捕鯨を完全に抹殺しようとする意図が、グリーンピースジャパンにはあるのだろう。今回の違法な「調査」は、捕鯨調査船に体当たりするぐらい愚かだ。自分たちの「うさんくささ」をアピールしているだけだと言うことに、気付かないのだろうか。

 最後に、今回の「横領」騒ぎについて考えてみたい。調査捕鯨は、農林水産省から交付された特別許可証によって「日本鯨類研究所」が実施している調査であり、実際の捕鯨業務は「共同船舶」が行っている。捕獲された鯨は、調査に必要なサンプルを採取した後、日本鯨類研究所から共同船舶が買い取り、水産庁による販売価格の認可を受けて、共同船舶が市場で販売している。共同船舶の買い取り価格は、捕獲時の鯨の種類や大きさで決められているはずで、買い取った鯨をどうするかは、共同船舶が決定できる。

 極端な話をすれば、共同船舶の社員だけで鯨を食べても、法的に何ら問題はない。だから、乗組員にお土産として鯨肉を配っても、横領にはなり得ない。グリーンピースジャパンは、「税金で行っている調査捕鯨」で鯨肉を「横領」と言っているが、税金で行っているのは調査そのものであり、得られた鯨肉という「副産物」も、共同船舶の買い取りによって調査費用に充当されている。どこがおかしいのか、わたしには理解できない。

 グリーンピースジャパンが告発した乗組員の「横領」は立件できないだろう。犯罪になり得ない。この騒ぎの焦点は、グリーンピースジャパンが組織的に行った不法侵入、窃盗、業務妨害へと移っていくに違いない。核実験の中止を訴えて結成された自称「環境保護団体」は、自ら「窃盗団」へと成り下がった。【了】

聖火リレーに見る中国の「愛国心」

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年5月 1日 04:09
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【PJ 2008年05月01日】- オリンピックの聖火リレーが世界の五大陸を回るようになったのは、前回(2004年)のアテネ大会からだ。ギリシャのオリンピアで採火された聖火は、オーストラリアのシドニーを起点に、初めてアフリカ大陸と南アメリカ大陸を通過し、近代オリンピック発祥の地、アテネを目指した。商業主義に毒された感のあるオリンピックだが、世界中が注目するスポーツの祭典であることは確かで、世界中を回る聖火リレーは、オリンピックの理念を象徴するイベントに見えた。この"五大陸"聖火リレーを、二回目にしてぶち壊したのが中国だ。

 1936年に開催されたベルリンオリンピックは、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが、ドイツ民族の優秀性と自らの権力を誇示するプロパガンダの場として利用された。オリンピック招致活動中や大会期間中はユダヤ人への迫害を緩和するなど、政策を曲げてまで開催にこぎ着けたオリンピックだった。くしくも、聖火リレーが初めて開催されたのも、ベルリンオリンピックだった。

 それから72年後の北京オリンピックは、漢民族の優秀性と中国の近代化のプロパガンダの場として利用されている。ナチスは、ユダヤ人迫害を表面上だけ取り繕ってオリンピックを行った。中国は、チベット人虐殺を国内問題と強弁し、チベット人を猛烈に批判し続けている。民族問題を隠すにせよ、開き直って少数民族を批判するにせよ、民族浄化を行うような卑劣な国に優劣などあるはずもないが、中国の厚顔無恥は際だっている。

 中国は、オリンピックを国威発揚の場としてしか考えていない。長野には無数の中国国旗がはためいた。数千人の中国人が「自発的に」日本国内外から集結したという。ウソだろう。あれほどの数の、しかも大きさの揃った中国国旗をどうやって手に入れたのか。その一点だけを考えても、長野に集まった中国人の「自発」の程度は容易に想像できる。

 チベット国旗の粗末さは中国国旗と対照的だった。A4の紙に印刷したモノクロの国旗、小さな画像を拡大して大きな紙に印刷したジャギーだらけの国旗。見てくれは粗末でも、テレビの画面を通して心に響く国旗だった。マスコミでは、聖火リレーに「乱入」した「台湾人」が拘束されたニュースが取り上げられていた。拘束されたのはタシィ・ツゥリンさん。タシィさんは、中国からインドに命がけで亡命したチベット人のご子息だ。タシィさんを台湾人と報道することは、正しくない。警官隊に押さえつけられてなお「フリーチベット」と涙ながらに叫んだタシィさんは、威力業務妨害で逮捕・送検され、現在もなお拘留されている。これは著しく正義に反するのではないか。

 「愛国心」をどう定義するかは難しい問題だが、わたしにとっての「国」とは、この国に住む人々であり、この国の自然だ。タシィさんのようなチベット人の愛国心も、抑圧され虐殺されているチベット人をどうにかして救おうとしている点で、わたしはよく理解できる。しかし、聖火リレーに見られた中国人の愛国心は、自らの国家を他国にアピールすることだけに執着し、彼らが「同胞」と言い張るチベット人には向いていない。

 少なくとも、1989年6月4日の天安門事件では、中国政府ではなく、中国人一人一人に向けられた愛国心があったはずだ。その「愛国心」はいつ失われたのか。天安門事件で虐殺しつくされたわけではあるまい。中国人の多くは、世界各地での聖火リレーを巡る騒動が、中国の発展をひがむ勢力によるものだと思っているらしい。どうすれば、中国政府の非道に気付いてもらえるのだろうか。

 聖火は、中国に入った。中国各地での聖火リレーは、中国があまねく発展していることを世界に知らしめるためだけに使われるだろう。空虚な聖火リレーだ。ヒトラーが始めた聖火リレーは、北京オリンピックで「本来の」聖火リレーとなっただけかもしれない。聖火が、チベット人の怒りで燃えていることを、中国人は知らない。知ろうともしていない。【了】

北朝鮮による日本人拉致事件=解決へのスピードを上げよ

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年4月21日 12:41
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【PJ 2008年04月21日】- 韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が来日している。前大統領の盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏は、多数の韓国人が北朝鮮に拉致されているにもかかわらず、北朝鮮との宥和政策を進めたが、李・大統領は、「自国民の保護は国家の基本的な責務」「北朝鮮は人道的な次元で協力すべき」として、朝鮮戦争の未帰還捕虜問題や離散家族再会問題、拉致問題を含む人権問題を最優先課題としている。日本にとっても好機に違いない。

 日本人拉致問題は、6カ国協議の停滞や、北朝鮮の核問題を最優先とする他の国々の主張と絡められて、なかなか進展しない。拉致問題の解決が期待されていた安倍晋三・前首相の退陣で、積極的に北朝鮮問題にかかわろうとする政治家が政権中枢にいなくなってしまったような雰囲気もある。

 新潟市中心部の古町では20日、横田めぐみさんをはじめとする拉致被害者を救おうと、署名活動が行われていた。年配のみなさんが声を張り上げて署名を呼びかける姿は、解決に本腰を入れない政治へのいらだちを表しているように見えた。年齢を問わず、通行する人たちのほとんどが署名に応じ、手作りの青いリボンを受け取りながら「がんばってください」と声をかけていたのが印象的だった。

 マスコミの話題は日替わりで、一時期のように拉致問題が取り上げられることは少なくなった。だが、一日も早い拉致問題の解決を、多くの人たちは望んでいる。社会保障の問題、税の問題など、解決すべき政治課題は多々あるが、国民の命を守ることよりも優先されるものはない。外交問題の解決には、いろいろな段階を踏む必要があることは分かる。しかし、現在の政府の対応は、解決への階段を上がっているのか立ち止まっているのか、わからないようなもどかしい状況だ。もっとスピードアップが必要だ。目に見える成果を期待する。【了】

善光寺と長野市長の「対照」

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年4月19日 15:22
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【PJ 2008年04月19日】- 善光寺が、聖火リレーの出発地を辞退した。善光寺と聖火リレー実行委員会の記者会見によれば、「文化財や信者を守らなければならない。また、チベット人の人権への弾圧が行われていることについて同じ仏教徒として憂慮した」結果だという。

 辞退の理由として、抗議活動による文化財の破損や参拝者への危険を回避することと同時に、チベット人虐殺に対する仏教者としての憂慮を挙げたことに、心から敬意を表する。13日には、善光寺境内でチベットでの犠牲者を悼む追悼式が行われたばかりだ。追悼式に参加した僧侶の代表は「事件で犠牲になったすべての方の菩提を弔い、平等で平和な世界の実現を願う」と述べている。政治や宗教を超えて、人間を人間として見つめる崇高な眼(まな)差しを感じずにはいられない。

 善光寺が、チベットでの虐殺を憂慮し、一度は栄誉として引き受けた聖火リレーを辞退したことは、歴史に残る英断だと言っていい。逆に言えば、それほどの深刻な事態がチベットで起きているということをわれわれは再認識すべきだろう。

 善光寺とは対照的に、リレーを無事に通過させることしか考えられない政治家がいる。長野市の鷲沢正一・市長は17日、抗議や混乱は「迷惑千万」と発言した。警備や実務を担当する人たちの本音は、「抗議は迷惑千万」かもしれない。だが、市長が口にすべき言葉か。なぜ抗議が起きるのかを考えらない浅はかさには、ただあきれるばかりだ。

 胡錦濤・中国国家主席が、5月6日に来日する。奈良を訪問し、法隆寺も唐招提寺も視察する。創価学会の池田大作・名誉会長とも会う。仏教者(か疑わしい人もいるが)は、同じ仏教者が虐殺されている状況に、どう行動するのか。善光寺は聖火リレーを拒否する英断をした。訪問を拒むことが難しくても、仏教者として言わなくてはならないことがあるはずだ。【了】

名古屋高裁の「イラク派兵は違憲」判断は卑怯だ

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年4月19日 07:26
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【PJ 2008年04月19日】- 名古屋高等裁判所は17日、航空自衛隊のイラク派遣の差し止めを求めた訴訟の控訴審判決を言い渡した。マスコミ報道では「現在の航空自衛隊のイラクでの活動は日本国憲法9条1項に違反している」との傍論を大きく取り上げているが、冷静に考えれば、この報道がいかにバカげた報道かがわかる。

 訴状によれば、一審における原告の請求は、

1.被告(国)は、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」により、自衛隊をイラク及びその周辺地域並びに周辺海域に派遣してはならない。
2.被告が「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」により、自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは、違憲であることを確認する。
3.被告は、原告に対し、1万円を支払え。

の3点である。要約すれば、イラク派遣の差し止め、違憲確認、損害賠償の請求となる。

 この訴えに対する名古屋高裁の控訴審判決の主文は、名古屋地裁の却下判決を支持して、「本件控訴をいずれも棄却する」である。門前払いで原告は全面敗訴だ。すべての請求を退けられても、もろ手を挙げて喜んでいる原告が理解できない。

 今回、名古屋高裁は傍論の中で「違憲」と指摘した。判決は、主文とそれ以外の部分から構成されるが、主文以外の部分で、判決と論理的に直結する部分を「判決理由」、判決に直接つながらない部分を「傍論」という。今回の判決でいえば、判決理由は「原告は被告(国)の自衛隊イラク派遣によって法的利益を侵害されておらず、請求は不適法として却下した原判決は間違っていない」、その理由によって論理的に導かれた結論が「控訴を棄却する」だ。それだけで完成するはずの判決文に、余計な憲法判断を傍論に書く必要はない。蛇足だ。

 傍論の中で「違憲」と指摘された国は上告できない。なぜなら、全面勝訴の判決を不服として上告しても利益がないからだ。一方、全面敗訴しながら傍論で「違憲」と書かせることに成功した原告も上告しないだろう。事実、敗訴した原告は「歴史的判決」と高く評価している。この裁判は、裁判で国が勝ち、裁判の本質ではない傍論の中身に原告は満足している。もう、裁判はこれで終わりだろう。マスコミの「違憲判断」という曖昧(あいまい)な報道だけが一人歩きするだけだ。この茶番はなんだろう。

 傍論で違憲と指摘しながら、主文で合憲と判断する裁判官は、不見識きわまりない。傍論が、本質的に不要な意見表明だということを理解していない。どうしても違憲だといいたいのなら、主文に意見を反映させるべきだ。差し止めを認め、損害賠償を命じる判決を書くべきだ。どうしても判決に反映できないのなら、個人的意見を表明すべきではない。それが司法の限界であり、司法の責任だ。

 一部のマスコミは、鬼の首を取ったように判決を取り上げている。例えば朝日新聞。「戦地への自衛隊派遣と憲法とのつじつま合わせのために政府がひねり出した理屈の矛盾を、名古屋高裁が突いた」。傍論を判決よりも大きく取り扱う矛盾を突く人間は、朝日にはいないのか。【了】

中国の民族政策はどこが間違っているのか。

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年4月10日 06:34
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【PJ 2008年04月10日】-
人類の多様性と差別
近年の生化学の進展によってデオキシリボ核酸(DNA)の塩基配列が精密に分析できるようになり、種としての人類をDNAから見つめなおす「分子人類学」が生まれた。分子人類学の研究によって、皮膚の色、目の色、髪の色、体型などで分類されてきた「人種」という考え方は、すでに根拠を失った。DNAを調べていくと、これらの「人種」の境界を決められないのだ。つまり、分子人類学のひとつの成果は「人類は、これまで考えられていたよりも、はるかに多様である」ということを明らかにしたことだろう。

 人類の多様性を思うとき、人種差別とは何だったのか、と考えずにはいられない。肌の色が違うというほんのわずかな差だけで、差別し、抑圧し、虐待してきた人類の歴史は、あまりに悲惨で滑稽だ。しかし今もなお、人種差別に限らず、いわれなき差別で苦しんでいる人がいることを思うとき、理性では抑えられない、差別を志向する醜い闇が人間の中にあるように感じずにはいられない。その闇をどう押しとどめるか、が現代社会の課題なのだろうと思う。

「民族」意識はいつ生まれるのか
 歴史や文化によって人類を区別する「民族」という考え方にも、客観的な基準があるわけではない。言語、宗教、地域など、民族を特徴付けるキーワードはいくつかあるが、「肌の色」と同じように「民族」の境界は曖昧だ。しかし、民族間の紛争--民族問題は厳然として存在する。いや、「民族」という言葉は、文化的抑圧に苦しむ人たちの叫びとしてのみ使われると言ったほうが適当かもしれない。本来は曖昧であるはずの文化の境界にくっきりと線を引かれ、「異民族」として抑圧されたときに「民族」という意識が生まれるのだ。

 日本は多民族国家である。代表的な民族として、大和民族、アイヌ民族、琉球民族などがあるが、アイヌ民族は大和朝廷に服従しなかったために明治以降も迫害され続けてきたし、琉球民族は日本と中国の領有権争いや、戦後のアメリカ統治の中で揺れ動いてきた。迫害や不安定な地位の中で「民族」が形成され、これらの民族と対比する形で大和民族が成立したと考えるのが自然だと思う。つまり、「多民族国家」とは、ある集団が他の集団を抑圧した歴史を本質的に持ち、その後、抑圧してきた民族を容認することで成立した近代国家であると言えるだろう。

中国の民族政策の二重構造
 前置きが長くなったが、この記事で取り上げたかったのは中国の民族問題である。中国の歴史は、民族の統合の歴史であったといってもいい。現在、中国の人口の92%を占める漢民族は、古代、黄河中下流域で殷族と周族が混交して発生した集団を起源とし、周辺民族を吸収・混合しながら膨張してきた。「漢民族」という民族が生まれたのは、清の成立によって満州民族に支配されたことによる。現代の漢民族がこれほどまでに膨張し得たのは、同じ文化を受け入れた種々の民族を「漢民族」として再定義したためであり、その点では、ローマ帝国がローマ市民権の拡大によって膨張した過程と類似している。

 現代中国では、漢民族以外の少数民族で「民族区域自治」が行われており、特定区域での自治権が認められている。が、それはタテマエだ。中国では、漢民族とそれ以外の少数民族を含む「中華民族」という概念が提唱され、中国国籍を持つすべての人々が同じ民族であると定義した。この「中華民族」という考え方こそが、チベット族、ウイグル族を迫害し続けている元凶だ。政治システム上は「多民族国家」であるかのように振舞いながら、少数民族を吸収した「中華民族」による単一民族国家を目指している。それが中国の民族政策なのだ。

チベット問題は民族間紛争
 中国政府がチベット問題を内政問題と主張し、他国の干渉をかたくなに拒否しているのは、チベット族と漢民族の民族「間」問題ではなく、中華民族「内」の問題であると認識しているからだろう。清の崩壊後、ソ連の支援によって1924年にモンゴル人民共和国が独立したことは、少数民族をそのまま放置しておけば外国の干渉によって国土が切り取られる可能性があることを、強烈に印象付けたに違いない。1950年代に「農奴解放」と称してチベットに侵攻し、大虐殺を繰り広げ、多数の漢民族の移住による民族浄化を進める中国の非道は、民族間紛争として他国が介入することを回避することが目的だ。ウイグルでも内モンゴルでも同じことが起きている。

 中国政府に対して「平和的に話し合いで解決して欲しい」と伝え続けている日本政府の対応は、完全に間違っている。チベット族の猛烈な抗議活動は、漢民族の大量移住という一見「平和的」な中国政府の政策で、チベット族が地上から消滅してしまう危機感によるのだ。話し合っているうちに、「平和的」に民族浄化が着実に進むだろう。日本政府が中国に求めるべきは、とりあえずの沈静化などではない。少数民族の保護と適切な自治権の付与であり、それが達成されなければ、チベット族の独立を支援する可能性があることを示すことだ。

オリンピックの価値
 オリンピックに参加する選手たちを批判する気は毛頭ない。スポーツを通じて得られる喜びも、日々の鍛錬の結果、4年に一度のスポーツの祭典に参加できる喜びも、最大限尊重されるべきだろう。オリンピックの価値は、選手自身が決めるべきものだとも思う。また、過去のオリンピックをテレビで見ていただけのわたしが、その価値を正しく評価できるとは思わない。しかし、虐殺が行われている国で開催されるオリンピックに、どれほどの価値があるのかと、ずっと考えている。

 スポーツができる喜びを謳歌することなく、政府に殺され死んでいく人たちが、かの国にいるのだ。わたしの価値観を表明しても所詮なんの足しにもならないが、スポーツ選手として尊敬されるよりも、金メダルを獲るよりも、人間として尊敬されるべき行動があるのではないかと思っている。

 北京オリンピックの聖火がもうすぐ長野にやってくる。チベット族の自治区も聖火は通過するという。世界中で抗議行動が起こっていることを、渦中のチベット族は知らないだろう。チベット族の人々は、聖火をどういう気持ちで見つめるのだろう。世界中を回ってきた聖火を見て、世界から孤立しているような気持ちにならなければいいと願っている。炎の色が、通過してきた国の人々の思いを吸収して変わればいいのに、と思う。

 マラソンのメダリスト、有森裕子さんがテレビで、「聖火ランナーに選ばれたことは栄誉だと思っている。全ての人たちに賛同してもらえるような環境になればいいと思っている」という意味のことを話されていた。その通りだと思う。だが、今の状況では、それは絶望的だ。聖火ランナーがチベット問題を考えながら、オリンピックの意味を考えながら走るのに、そんなことはお構いなしに、テレビでは、脳天気なお祭り騒ぎで聖火リレーを放送するだろう。それが日本のマスコミのレベルだ。

 政治とスポーツを結び付けるべきではない。しかし、オリンピックというイベントを利用しなければ、誰もチベットに注目してくれないのではないか、と行動を起こした人たちがいる。政治とスポーツを結び付けてしまった責任は、チベット問題に積極的に関与せず、チベット族にメッセージを送ってこなかった全世界の人々にある。隣国の日本には、もっと重い責任がある。その責任をどう果たしていくかは、個々人が真剣に考えるべき問題だ。

チベット"族"からチベット"人"へ
 「チベット族」という呼び方は、この記事で最後にしたいと考えている。チベット族と呼ぶときには、必ず「中国の」という冠詞がつきまとう。今は「中国のチベット族」かも知れないが、彼らが命がけで求めているのは、「チベット人」たる地位だと思う。

 多数の同胞が虐殺されてもなお、独立を求め続けている「チベット人」を、このまま見殺しにできるはずがない。【了】

ダメだこりゃ、民主党。

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年4月 3日 06:33
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【PJ 2008年04月03日】- 参議院では、年金記録の照合が3月末で完了しなかったことを受けて、民主党が桝添要一・厚生労働大臣の問責決議案を上程するらしい。民主党が政権を握っていれば照合は完了していたはず、という主張だろうが、わたしはそうは思わない。民主党主導でも完了するはずがなく「自民党政権時代のずさんな記録が問題」と責任を転嫁したに決まっている。民主党には何の具体案もなかったのだから。

 ガソリン関連税の暫定税率が廃止され、1リットルあたり25円の税が軽減されたが、実際には20円程度しか下がっていない。4月1日から、5円程度の価格上昇があったからだ。民主党は「勝利」と騒いでいるが、浮かれている場合ではない。25円の減税分など、数カ月で吹き飛ぶのではないか。既に5円は吹き飛んだ。減税だけで満足していていいのか。

 日銀総裁も決まらない。最初の総裁候補だった武藤敏郎氏の所信聴取で、民主党の仙谷由人氏は日銀の超低金利政策について「(低金利で)家計から300兆円の利子所得を奪うことになったが」と発言した。「奪う」とは過激だが、バブル崩壊後のデフレに陥りかけていた状況で、金利を上げるバカがどこにいるのだろう。300兆円は、資金を借り入れている人や会社が支払う金利の低減分だ。300兆円の利子所得を奪わなければ、300兆円の支払利息が上乗せされたのだ。例えば、住宅ローンを抱えている人には大打撃である。武藤氏が総裁として適任だったかどうかはわからないが、こんなバカげた論理の民主党に中央銀行人事をかき回されるのではたまったものではない。

 民主党の議員は、政権を奪うことだけが目的で、社会全体に対して一人一人の国会議員が負っている責任を放棄している。年金問題を取り上げたのは評価するが、その後の現状認識は不十分、日本経済の実態も金利政策も理解していない。こんな政党になにが期待できるのか。

 解散総選挙をすればいい。民主党は選挙演説でも現政権批判しかしないだろう。だが、自民党がダメだから民主党、ということにはならない。現実的なビジョンを打ち出せない野党には投票できない。現状維持のほうがまだマシだ。【了】

チベットの悲鳴に耳をふさぐな=中国・チベット族虐殺

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年3月18日 06:16
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【PJ 2008年03月18日】- チベットで大虐殺が起こっている。この大虐殺を、朝日新聞は「騒乱」、産経新聞でさえも「暴動」と呼んでいる。騒乱とは「大騒ぎ」のこと、暴動とは「何かを企(たくら)んだ集団が騒動を起こすこと」だ。今、チベット起こっていることは、チベットの人々の「騒ぎ」などではない。中国政府の圧政と民族融和政策に対するチベット族の「叛乱(はんらん)」である。中国政府は叛乱を武力で制圧しようとしている。圧倒的な武力による制圧のあとには、死屍(しし)累々たる惨状が広がり、チベット族の文化も消えてなくなってしまうだろう。ダライ・ラマ14世が「文化的虐殺」と呼ぶのはそういう意味だ。

 中華人民共和国政府は、チベットになにをしてきたか。中国政府は、1950年に人民解放軍によってチベットを軍事制圧し、チベット政府を駆逐した。1956年以降、チベットの社会主義化を強引に進めようとした中国政府に対してチベット人が独立運動を展開、1959年に独立運動は最高潮に達し、中国政府は数千人の死者を出して制圧した。中国政府は、この虐殺による制圧を「農奴解放」と呼んでいる。その後もたびたび大規模デモの武力鎮圧を繰り返した。1988年のデモに対して戒厳令を布(し)いて強力に鎮圧したのは、現在の国家主席である胡錦濤(当時チベット党書記)である。

 そして今。「民族浄化」というおぞましい政策が実行されている。中国人の90%を占める漢民族を、チベットに続々と入植させた結果、既にチベット自治区におけるチベット族と漢民族の人口比は逆転しているとも言われている。入植した漢民族は、チベット族を数分の一の低賃金で働かせている。農民工として都市部に連れ出されたチベット族も同じように搾取されている。今回の叛乱は、民族浄化によって消えてしまいそうなチベット族の悲鳴でもある。

 この叛乱の鎮圧について、中国政府は「秩序回復のための人民戦争」を宣言した。民族紛争を大虐殺で鎮圧することが秩序回復とは、思い上がりも甚だしい。政策で入植させた漢民族を元に戻すのが秩序回復だろう。

 中国には56の民族がいる。中でも、チベット自治区と新疆ウイグル自治区は、それぞれチベット仏教とイスラム教を背景とする政教一致社会を作っており、独立運動がたびたび起こっている。この2つの自治区の面積は、中国国土の40%にも達しており、豊富な鉱物資源を有している。中国政府が国際社会からどれほど非難されようとも、独立はもちろん、自治権の拡大も認めようとしないのは、そういう経済的背景もあるのだろう。

 宗教を力で押さえ込み、資源を力ずくで奪おうとする中国政府の覇権主義を、許してはいけない。胡錦濤の来日など中止すればいい。オリンピックなど論外だ。去年の春、チベットからの留学生が帰国するときに、「北京オリンピックは漢民族のオリンピック」と冗談半分で言っていたことを思い出す。今になってその意味がよくわかる。今までわからなかった不明を恥じる。オリンピックに参加することで、圧政に苦しむチベットやウイグルの人たちを孤独の淵(ふち)に立たせてはいけない。【了】

「反論」公務員だって労働者だ。=朝礼を巡る大阪府知事と府職員の騒動

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年3月15日 05:35
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【PJ 2008年03月15日】- 14日のPJオピニオン(地方公務員は「労働者」なのか? 橋下知事が大阪府若手職員集めた朝礼をめぐる「超過勤務」問題)に反論する。(以下、<>でくくった部分が同記事からの引用部)

 地方公務員の労働条件は、地方公務員法に定められている。同法によれば、地方公務員は労働組合法、労働関係調整法、最低賃金法の適用は受けず、また、労働基準法や労働安全衛生法などについても、一部の適用が除外されている。このような労働関連法の適用除外は、私企業を相手方とする労働契約に基づき雇用されている一般労働者と、地方公共団体の行政処分によって任用されている地方公務員、という「労使」関係の違いを反映している。

 私法上の雇用契約と公法上の任用行為という実定法上の違いがあっても、役務を提供しその対価を得る、という労働者の本質的定義に基づけば、地方公務員も労働者であることに疑義はない。

 14日のPJオピニオンでは、「始業時刻の15分前に朝礼を開始することを提案したら超過勤務になると言われた」との大阪府知事の発言を受け、<民間企業なら正規の就業時間より5~10分早めに集まって朝礼をやるのは当たり前で、これを「超過勤務になる」と反発すること自体が民間の意識とズレている。>と主張されている。

 しかし、2000年の上告棄却で確定した福岡高等裁判所判決では、朝礼、着替え、準備体操など「本来の作業を遂行するにあたり必要不可欠ないし不可分の準備行為」は、「使用者の指揮命令下においてなされる労務の提供と解され、これに要する時間も労働基準法上の労働時間に含まれるというべきである。」とされている。このことから、正規の就業時間よりも早い時間に行われる朝礼は、超過勤務手当が支払われるべき労働である。

 就業時間外勤務に賃金を支払わないのは、労働者に損害を与える違法行為であり、その違法行為を許容しているのが「民間の意識」だとすれば、責められるべきは民間の雇用者である。それを根拠に、時間外朝礼を大阪府職員に求めるのは間違っている。ただし、大阪府知事が9時からの朝礼を求めた今回の事例について言えば、大阪府の職員の勤務時間、休憩時間等に関する規程に、「職員の勤務時間は、休憩時間を除き、午前9時から午後5時45分までとする。」とあり、勤務時間内である。「始業時刻」が9時15分であるという根拠は見つけられなかったため、規則上、9時からの朝礼は問題なかったのではないか。とすれば、職員の苦情には根拠はなく、9時15分からの朝礼に変更した知事の対応も問題だと思う。

 前掲のPJオピニオンでは<民間企業ではサービス残業の実態が発覚して、労基署の指導で残業代を払わされるケースが増えている。府職員のサービス残業分を清算して残業代を払うことになれば、その原資は府民の税金なのだ。サービス残業を声高らかに自慢しないでもらいたい。>と書かれている。サービス残業が違法なのだから、残業分に相当する賃金を要求するのは、労働者の当然の権利である。その原資が税金だから、どうだというのか。税金の使い道を決めるのは首長であり、それを認可するのは議会である。残業代を支払えないというのは予算の配分が間違っているからで、その責めが地方公共団体に任用されている労働者にあるはずがない。

 法的には許されないサービス残業が社会的に許容されることがあるとすれば、それは、労働者自身がサービス残業に納得している場合だけだろう。「職を失えば再就職は難しい」という労働者の不安につけ込んだ強制的サービス残業は論外としても、「残業代を出させると会社がやっていけなくなる」と考えて、自主的にサービス残業をしている民間企業の労働者は多いと思う。予算がないから、とサービス残業をしている公務員もいる。それは字義通りの「サービス」であって、本意ではない場合には、サービス残業を打ち切ることも、残業手当を要求することも労働者の権利だ。会社への帰属意識が薄れてきたことによって、旧態依然とした日本の労働環境は確実に変わろうとしている。サービス残業という悪しき慣例を「美徳」と考えない世代も増えている。このような変化の時期に、「超過勤務手当を主張するな」と、労働者が長年苦労して獲得してきた権利を、「普通は我慢しているから」「どこでもやっているから」と否定することが正しいとは思わない。

 「始業前の朝礼で超過勤務手当だと言うなら、皆さんの執務時間、私語やたばこ休憩は全部減額させてもらう」との大阪府知事の発言はおかしい。朝礼で超過勤務手当を求めることとは全く別次元の問題であり、私語やタバコ休憩が規定に反するものであるのなら、即刻、処分を行って給与を減額するのは当たり前だ。「いろいろ見逃しているのだから、朝礼ぐらいいいじゃないか」とは、法曹出身の知事が言うべきことではない。職員給与を含めて、税金の適正な支出に責任を負っている知事なら、職員の不正な勤務実態を見逃してはならないのではないか。

 公務員を不当に貶(おとし)めることは、いじめ以外のなにものでもない。<公務員としての立場でものを考えたなら、始業時間前の朝礼を「超過勤務」などという発想は生まれないはずなのだ。>とはどういう意味か。「公務員の立場」を、<労働者としての立場を主張するべき立場ではない>と考えているのなら、それはあまりに公務員を侮辱している。

 税金を原資として給与が支払われている公務員だが、日本国憲法に規定されている「全体の奉仕者」という立場は、「下僕」や「奴隷」などではない。対等な労働者として捉えていないから、「税金で食っているくせに」というような粗雑な批判で終わってしまっている気がする。さぼっている公務員がいるなら、徹底的に糾弾すればいい。税金から給与が支出されているのだから、納税者の誰もが、公務員の勤務状況を監視し、批判する権利を持っている。「公務員はダメだ」というのは簡単だが、批判すべき点は批判し、認めるところは認めていかないと、なにも変わらない。

 たかが15分の朝礼の話は、多くの労働者は受け入れるような話かも知れない。しかし、これまでマスコミで取り上げられてきた一部公務員の"なぁなぁ"の勤務実態を考えると、たった15分の"例外"が「今日の始業は15分早かったから、15分早く帰る」「昨日15分長く勤務したから、今日は15分遅く」と、ずるずると尾を引く可能性もある。規則は規則。業務中に私語やタバコ休憩もダメ。サービスと呼んで労働時間を根拠なく伸ばすのもダメ。規定を振りかざして全ての問題が解決するとは思わないが、大阪府の改革が進められようとしているときだからこそ、その原点として「規則に沿った正しい働き方・働かせ方」を徹底しなければいけない時ではないのか。もちろん「勤務中は精一杯働く」という職業倫理を前提にしての話だが。【了】

誤解を招く著作権規定にユーザー激怒=ミクシィの利用規約改定

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年3月13日 08:01
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【PJ 2008年03月13日】- mixiが、利用規約改正に揺れている。3月3日に公表された新しい利用規約の一部について、ユーザーが猛反発しているためだ。この騒ぎで同社の株価も大幅に下落し、2月29日に124万円だった株価が、利用規約改正案が公表されて2日間で22万円安となり、12日の終値では88万9千円になっている。株式市場全体が下げた時期でもあるが、これだけの下げは、mixiの株価チャートでも目立つ。

 4月1日に実施予定の規約改正で大きな問題となっているのは、「日記等の情報の使用許諾等」について定めた部分で、「本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利を許諾するものとします 」という文言だ。

 従来の規約には、ユーザーの著作物である日記について、明確な著作権規定がなかった。ただし、動画については「mixi動画利用規約」で、ユーザーが動画を投稿した際にmixi側に使用を許諾する旨の規定がある。この使用許諾規定が、新規約では日記にも適用されることになり、ユーザーの許可なく日記が書籍化されるのではないか、などの懸念が一気に広まった。

 日記の書籍化は、ユーザーにとって脅威だ。mixiは、既存ユーザーからの招待で参加できる「クローズ」なコミュニケーションサイトで、自分の書いた日記がmixiのユーザーにのみ公開されることになっている。さらに、ユーザー全員に公開する日記なのか、一部のユーザーに公開する日記なのかを設定することができるため、ユーザー自身が日記の公開範囲を決められるシステムになっている。その日記が、mixiの判断で、mixiに加入していない一般市民にも公開される可能性があるとなれば、大騒ぎになるのは当然だ。

 ほとんどのブログサービスでは、mixiの新規約に近い著作権規定が定められている。例えば、ライブドアブログ規約の該当部分を引用すると、「利用者が著作したウェブログとそれに付随するコメント及びトラックバックは当該ウェブログを著作した利用者に著作権が発生するものとします。但し、宣伝、利用促進、出版、マーケティング等を目的としウェブログサービスの著作物を使用する場合、利用者は弊社に対し、当該著作物を著作権法の規定に基づき無償利用することを期間無制限で非独占的に許諾し、かつ弊社及び弊社の指定する者に対し著作者人格権を行使しないものとします」となっている。

 これらの一般的なブログサービスの規約と比較すると、mixi新規約では、1.ユーザーの著作権を明示していない、2.ユーザーの著作物をmixiが利用できる範囲が明示されていない、という問題点がある。加えて、mixiは、(建前上は)ブログよりも公開範囲を制限したコミュニケーションサイトであるのだから、ブログサービスの規約よりも高度で具体的な著作権規定があって然(しか)るべきである。

 このような問題点について、mixiは7日、著作権のユーザー帰属を明記する改正案を検討していることを明らかにし、日記の利用範囲として想定している具体的な事例を示した。示された想定利用範囲とは、「サーバーに日記データを格納する際にデータ形式等の改変すること」「日記データを複製して複数のサーバーに格納すること」「日記等の情報が他のユーザーによって閲覧される場合に情報を送信すること」であり、ユーザーの了承なく書籍化することはないと明言している。ただ、例示された事例は、著作権法第20条に挙げられている「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」に該当すると考えられ、規定を設ける必要はないように思われる。

 今回の混乱の責任は、どのようにでも解釈できる文言を規約に書いてしまったmixiにある。ただ、規約の改正にはまだ2週間程度の時間があり、mixiも改正案の練り直しを行っているとのことなので、この著作権許諾規定については、ユーザーの懸念を払拭できる具体的規定に書き直されることを期待する。

 著作権許諾規定ほどの騒ぎにはなっていないが、もう一つ、とんでもない文言がある。こちらのほうが大きな問題かもしれない。

 「本利用規約及びその他の利用規約等の規定の一部が法令に基づいて無効と判断されても、本利用規約及びその他の利用規約等のその他の規定は有効とします。」「利用規約等の規定の一部があるユーザーとの関係で無効とされ、又は取り消された場合でも、利用規約等はその他のユーザーとの関係では有効とします」(第21条)

 前段はいい。問題は後段の位置づけだ。ユーザーの一人が規約の一部無効を確認する訴訟を提起し、規約の一部無効が判決された場合、前段では「該当部分を無効とする」と規定しながら、後段では「そのユーザーに対してだけ該当部分が無効」と規定している。つまり、「規約無効を主張したいのなら、それぞれのユーザーが裁判を提起してください」と言っている。これは、判例の法的効力を否定したもので、全く認められない。ユーザーに訴えられれば、この部分が無効と判決されるだろう。その判決も、訴えたユーザーだけに有効だというのか。ジョークにもならない話だ。

 多くのユーザーの支持を受けて急成長したmixiだが、ユーザーの支持を失えば、それ以上の速さで衰退する。そのことをmixiは当然よくわかっているはずで、今回の騒ぎもmixiの平謝りで収束していくだろう。収束させなければ、ただ消滅していくだけだ。ネットでの新事業を開拓してきたmixiがネット上での著作権意識の高まりに気付いていなかったのならば、もはやITベンチャーのトップランナーではないことを自ら証明したことになるのかもしれない【了】

中小企業の公的支援と「新銀行東京」の失敗

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年3月11日 06:49
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【PJ 2008年03月11日】- 政府系金融機関の民営化が進んでいる。郵政3事業の民営化は、日本郵政グループ(郵便局株式会社、郵便事業株式会社、株式会社ゆうちょ銀行、株式会社かんぽ生命保険と、持ち株会社の日本郵政株式会社)が2007年10月に業務を開始し、一応の完成を見た。今年10月には、中小企業金融公庫、国民生活金融公庫、農林漁業金融公庫、国際協力銀行、沖縄振興開発金融公庫が統合した株式会社日本政策金融公庫の発足と、商工組合中央金庫(商工中金)および日本政策投資銀行の株式会社化が控えている。お金を預かる郵便局と、そのお金を運用する政府系金融機関の民営化によって、小泉純一郎政権が掲げた「官から民へ」という大きな政策転換が実現することになる。

 個人事業主や中小企業への融資は、リスクの高い融資業務である。このことは、バブル崩壊後の不良債権処理で、銀行が真っ先に中小企業への貸し出しを縮小したことからもわかる。このような「貸し渋り」で窮地に陥った中小企業を支えてきたのは、国民生活金融公庫や中小企業金融公庫などの政府系金融機関だった。2007年3月末の貸付残高は、国民生活金融公庫で約8兆3500億円、中小企業金融公庫で約6兆4500億円、商工組合中央金庫で約13兆3500億円であり、3つの合計は28兆円を超える。

 これらの政府系金融機関がリスクの高い融資を行っているのは不良債権比率からも明らかで、民間銀行の不良債権比率が2007年9月で1.5%なのに対して、中小企業金融公庫では15.1%、国民生活金融公庫では9.8%、商工組合中央金庫で25.3%となっている。(いずれも2007年3月における金融再生法に基づく開示債権の割合)

 このような多額の不良債権を抱える金融機関が民営化するとどうなるか。先行した例が、石原慎太郎・東京都知事の肝いりで発足した新銀行東京だろう。国と東京都という運営母体や資本規模の違い、新銀行東京が設立時から民間組織という位置づけであったことなどの違いはあっても、公的資金を中小企業に貸し付けて運営するという理念は共通している。新銀行東京の2007年9月の不良債権比率は10.17%で、前述の政府系金融機関に匹敵する比率になっており、民間金融機関が融資に踏み切れないリスクの高い債権を引き受けるという目的は、ほぼ達成できたように見える。

 新銀行東京の累積損失が、2008年3月に1016億円に達することが報道され、経営陣や石原都知事の責任を問う声が高まっている。設立準備段階での見通しの甘さや放漫な経営など、批判されるべき点は多々ある。経営上のさまざまな問題もこれから明らかになってくるだろう。だが、中小企業支援を目的としてスタートした金融機関が10%程度の不良債権を抱えることは当たり前で、今になって経営陣や都知事の責任を声高に追及するのは滑稽(こっけい)に見える。また、都知事が経営陣に責任を転嫁するような発言をすることなど、笑止千万だ。「中小企業支援のための公金投入は必要だ」と、堂々と都民に訴えるべき性質の問題である。

 不景気にあえぐ中小企業を公金で救済するという理念で新銀行東京を設立したことは、地方自治体の新たな活動として画期的であったことは間違いない。地方分権が進めば、これまで国が行ってきた中小企業支援を誰が行うか、という問題が必ず浮上する。残念ながら、その先べんを付けた新銀行東京は、遅かれ早かれ破たんするだろう。しかし、誰かがやらなければならない中小企業支援をこれからどうするのか、という問題は、経済ニュースの枠を超えて、極めて重要な政治問題だ。

 民営化した政府系金融機関は、民間金融機関を大幅に超える不良債権比率でスタートする。株式会社になれば、当然、不良債権比率を下げることを目標とするだろう。そうすれば、中小企業の支援・育成や、ベンチャー企業などの起業などへの、高リスク融資は真っ先に削られるに違いない。これでは、既存の民間金融機関と全く同じになってしまう。それでいいのか。

 2002年、「金融システムの破たんによる混乱を回避するため」と、民間金融機関に巨額の公的資金が投入されたとき、"混乱"とは"融資引き上げによる中小企業の破たん"だとわたしは思っていた。だが、実際には、銀行そのものの救済が行われただけで、公的資金で救ってもらった銀行は、中小企業を窮地に追い込んだ。その窮地から多くの中小企業を救ってきた政府系金融機関が実質的に消滅すれば、中小企業は雲散霧消するだろう。

 大企業が日本経済を支えているように見えるかも知れない。だが、実際に日本を支えているのは、企業数の99.7%、従業員の66.4%を抱える中小企業だ。華々しい大企業をじっと支えている中小企業を支援しなければ、産業は成り立たない。IT産業を例に出すまでもなく、新しい産業は、常にベンチャーや中小・零細企業から生まれてくる。融資がムダになるかも知れないことを承知で支援しなければ、誰が新しい産業に挑戦しようとするのか。

 市場原理というのは、明確で厳格だ。事業に失敗すれば即、退場である。リスクの高い融資先には高い金利で融資するし、経営が怪しくなればすぐに債権を回収する。だが、そういう市場原理に基づく金融システムは、民間企業に任せておけばよく、国は政策として中小企業支援をしなくてはならない、とわたしは思っている。政策とは、税金を使うことである。中小企業支援を目的とした新銀行東京が破たんしそうな今だからこそ、公の中小企業支援はどうあるべきなのかを議論すべきだろう。税金をムダ使いすることを覚悟しないとできない支援がある。産業を育成するということは、そういう支援の一つだとわたしは思う。

 公金を投入する必要性を都民に訴えていれば、新銀行東京は中小企業支援の本拠地になり得た。産業の空洞化や、技術立国の危機を感じている市民は多いはずだ。きっと、強力な支援が得られただろう。赤字黒字よりも、どこにどれだけの資金を投入したのかに関心が集まっただろう。そう思うと、なんともやりきれない、もったいないような気持ちになる。新銀行東京の失敗におびえて、株式会社日本政策金融公庫が萎縮(いしゅく)することを危ぐしている。誰もリスクに手を伸ばさない社会には、停滞か後退かしかない。【了】

参議院なんてやっぱりいらない。民主党もいらないかも知れない。

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年3月 7日 14:41
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【PJ 2008年03月07日】- 7日も、参"議"院に"議"論はありませんでした。四日間連続で流会です。衆議院で2008年度予算案を強行採決した自民党・公明党に反発して、民主党と社民党が審議拒否しているからです。

 民主党のホームページに、小沢一郎・代表がこんなことを書いています。(抜粋)

「日本の政治の景色が、ガラリと変わりました。
私たちの目指す『国民の生活が第一』の政治が始まったのです。

7月の参議院選挙で、国民の皆さんが
民主党を参議院第一党に選んで下さったからです。
与党の強行採決は、不可能になりました。
それどころか、国民の声がやっと国会に届くようになったのです。」

 国民の声を届けるための、審議拒否なんですね。ふーん。

 平成13年度の国会所管歳出は、約1,440億円(うち、参議院分は440億円)。議員の歳費や職員の人件費、運営費を含んだ金額ですが、国会を維持するために使われている税金です。365日で割ると、一日あたり4億円(参議院のみの場合1億2000万円、以下同じ)。土日を除いた260日で割れば、5億5000万円(1億7000万円)。通常国会の会期150日で割れば、9億6000万円(3億円)。

 こんなに税金を使っているのに、審議拒否。普通は「さぼってる」って言います。

 審議が十分でないまま、予算案を強行に通過させたのが気に入らないから、参議院では審議しないってどういうことですか? 「衆議院で議論させろ!」と"参議院"を空転させているのが、参議院第一党の民主党。参議院の存在意義を自ら否定しているのと同じです。

 憲法上、予算について衆議院の議決が優先しているから、衆議院で議論したいのはわかります。でも、この状況で衆議院で予算を再審議・再議決しても、否決されることはないでしょう。それなら、参議院で徹底的に批判して、否決すればいい。断固たる否決こそが、参議院選挙で民主党を勝たせた「国民の声」でしょう。

 年金問題があり、道路特定財源問題があり、診療報酬改定問題があり、特別会計の問題も経済格差の問題もあります。その議論を放っておいての国会空転は、納得できません。国民生活を破たんさせるかも知れない危機に、さぼってるなんてあり得ません。さぼってもなんとかなるような参議院なら、そもそも不要です。

 参議院が存在意義を失ってしまっている現在の状況は、とりもなおさず第一党の民主党の責任です。道路特定財源について、民主党は2月29日、一般財源化と暫定税率の廃止を骨子とする法案を出しました。自分たちの出した法案を議論しないってのは、どういう了見なのでしょう。憲法で衆議院の議決が優越していても、参議院は参議院で議論すればいい。与えられた状況の中で精いっぱい議論をしない政党に、政権交代を主張する資格はありません。民主党に投票した有権者は、この体たらくをどう思っているのでしょう。審議拒否が政権担当能力の欠如を露呈していることに、民主党は気付くべきです。このままでは、参議院不要論と同時に「民主党不要論」も出てきますよ。

 野党が欠席しても質疑の日程を設定する、と表明していた鴻池祥肇・参院予算委員長(自民党)に対して、民主党の簗瀬進・参院国会対策委員長は「自民党のパフォーマンスだ」と批判しているようですが、民主党も、そのパフォーマンスを凌駕するほどの「何か」をやればいいんです。その「何か」が「徹底した議論」であることを、社保庁問題の徹底追求で民主党は気付いたはずなのに。

 日本には、まともな野党が必要です。政界再編ではなく、政界創生が求められています。【了】

年金未納と「ノストラダムスの大予言」

  • Posted by: 小林亮一
  • 2008年3月 6日 08:38
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 【PJ 2008年03月06日】- もう30年近く前になりますが、今は亡き五島勉さんの代表作「ノストラダムスの大予言」をドキドキしながら読んだ記憶があります。「1999年7の月、恐怖の大王が天から降ってくる」と、期日指定で地球の滅亡を言ってたわけですからね、ドキドキするのも当然です。問題の1999年には、探査船カッシーニのプルトニウム電池が落下して来るとか、コンピューターの2000年問題とか、北朝鮮が核ミサイルを発射するとか、世間は大騒ぎでした。わたしはいい大人になってしまっていて、大騒ぎを楽しんで見ていたのですが、今になると、もう少し怖がってみればよかったなと思ったりもします。

 そのころ、子供たちに「7月で地球が滅亡するとしたらどうしますか?」と聞いているテレビ番組がありました。子供たちの答えは「勉強しない」とか「お小遣いを全部使う」とか。お父さんやお母さんに「勉強しなさい」「お小遣いは無駄遣いしちゃいけません」っていつも言われてるんだなぁ、とほほ笑ましく見てました。そんな子供たちのなかで、すごい答えをした女の子がいました。「滅亡しなかったらバカみたいだから、ちゃんと勉強します」って(笑)。忘れられません。。

  こんなに楽しかった「ノストラダムスの大予言」と結びつけるのは無粋で申し訳ないのですが、年金と「ノストラダムスの大予言」にはよく似ているところがあるな、と思います。

 平成19年11月の国民年金保険料の納付率は61.7%平成18年度の統計調査によると、若い人ほど納付率は低く、20~34歳では55%前後になっています。納付しない理由は人それぞれだと思いますが、支払った保険料よりも受け取る年金額が少なくなる「支払い超過」や、長生きしないから支払ってもムダという「早期死亡予測」を理由にしている人も結構いるみたいです。

 信念を持って未加入・未納付を続けている人にどうこう言うのは、大きなお世話なのかも知れませんが、それを承知で書きます。支払い超過になる可能性が高くても、支払わなかった金額を老後のために貯蓄している人なんて聞いたことがないので、高齢になって働けなくなって、貯蓄もない、年金もないだと大変ですよね。

 「長生きしない」と言ってる人が長生きするのはよくある話で、長生きしたくないと言っているわたしの祖母は「早くお迎えが来ないかなぁ」と口癖のように言っているのに、ドアにわずかでもすき間があいていると「風邪をひくからちゃんと閉めて」と96歳とは思えない敏感さでしかります。

 「ノストラダムスの大予言」の騒動では、「恐怖の大王が降ってくる」と言いながら、シェルターを作った人はごくわずかでした。「支払った額よりも受け取る額が少ないから」と言いながら、老後のための貯蓄をしている若い人もほとんどいないでしょう。「長生きしないから」と年金に入っていない人には、あの少女の名言「滅亡しなかったらバカみたいだから、ちゃんと勉強します」を思い出していただきたいと思います。

 年金制度の不備や、管理運営している社会保険庁の不祥事が目に付きます。近い将来、抜本的制度改革も必要になるでしょう。でも、苦労しながら年金保険料を払っていた人が、払わなかった人よりも不利になるような制度改革は、絶対にありません。未加入や未納付のみなさん、「自分が80歳になったときどうやって生活しているのだろう」と想像力を働かせてみませんか。年金は受け取れたほうがよくないですか?年金の基本は「相互扶助」。誰